京都祗園堂

祇園堂の歴史

祇園堂の歴史

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■歴史年表

平安時代、1104年、第73代・堀河天皇の御願寺として、祇園社の巽角(東南)に官吏・高階為家により尊勝寺阿弥陀堂の建立が始まる。 (『中右記』『百錬抄』)。
その場所は真葛原(まくずがはら)南部、双林寺南部といわれる。
翌1105年、阿弥陀堂の供養が行われ、院の殿上人がすべて参加するほどの盛大なものだったという。
堂には丈六の阿弥陀仏を安置し、以後、祇園女御が住した。
1111年、祇園女御は、仁和寺内に威徳寺を建立し、晩年はそちらに移っている。阿弥陀堂のその後については不明。
跡地に、天台宗の蓮花寺が建立されたという。年代不明、寺の詳細も不明。(『坊目誌』)
後世、草堂坊舎一宇のみが残っていたという。(『坊目誌』)
近代、廃寺となる。祇園女御という木像(坐像一尺、中古<平安時代、鎌倉時代?>作)があり、木像は京都府庁に遷されたという。(『坊目誌』)。
跡地には、祇園女御塚といわれる墳墓があったという。
1904年、阿弥陀堂が建立される。
現代、1972年、阿弥陀堂保存会有志により、祇園女御塔(五輪塔)が建立される。
1994年、阿弥陀堂京都祇園寺が建立される。阿弥陀堂、祇園女御塔は京田辺市天王に遷されたという。
2004年、祇園女御塚(宝篋印塔)が新たに立てられる。

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■祇園女御について

平安時代後期の女性・祇園女御(ぎおんにょうご、生没年不詳)。
祇園社脇の水汲み女、源仲宗の妻、仲宗の子・惟清の妻ともいう。
白河法皇の寵妃・法皇の下級官女として仕え寵愛を受ける。
1104年頃、藤原公実の娘・待賢門院璋子を養女とし、法皇の養女として育てる。
1105年祇園社の東南に阿弥陀堂を建て住した。
1111年(1109年とも)仁和寺内に威徳寺を建立し晩年は移る。
僧・禅覚を養子とした。
1113年六波羅蜜堂で一切経供養を営む。
権勢を誇るが女御宣旨は下らず祇園女御と通称され、東御方、白河殿とも呼ばれた。
白河院が、ある事件での武勲により、平忠盛の思慮深さを愛で祇園女御を贈ったという。
ただ、その時すでに女御は懐妊しており、法皇は女子であれば法皇が、男児であれば忠盛の子とするとしたという。
男児であったため、忠盛が育てたのが平清盛であったという。(『平家物語』巻6「祇園女御」)。
また、忠盛が賜ったのは女御の妹の方であり清盛は妹と法皇の子ともいう。
女御は養母であったともいう。
八坂神社境内に忠盛の伝承にまつわる忠盛灯籠が立つ。